東アジア思想・哲学研究教育プログラム
招聘研究者

史 甄陶

経歴
-- 年国立清華大学中国文学系博士
-- 年国立清華大学中国文学系博士後研究

研究テーマ
元代前期における『詩集伝』の発展
-胡一桂の『詩集伝付録纂疏』を中心に

一、 研究の背景
本研究では主に、元代前期の学者、胡一桂(1247-1315)が著書『詩集伝附録纂疏』において、
いかに朱熹『詩集伝』の重要な見解を継承し、
同時にまた、いかに自己の学術観点を表現したかを検討することによって、
宋末元初における朱子学の変化および元代における『詩経』学の特徴を提示する。

 大多数の経学史の理解では一様に、朱子学が元代に官学として認められて後、
経学は述朱の学問へと変容したため、その発展は清代の経学復興まで停滞していたとされている。
しかし、この説は元代の朱子学官学化以前の時期を見過ごしており、
ここ五十年の研究においても、明代の『四書五経大全』編纂以前の時期を軽視している。

この時期の朱子学は重視されていたとはいえ、依然として衆説紛々としていた。
現在では一部の研究者の間でこの問題に対する見直しが始まっているが、
まだ多くの検討の余地を残している。

たとえば胡一桂『詩集伝附録纂疏』は、いまだ研究が進んでいないテーマである。
胡一桂、字は庭芳、号は双湖、徽州婺源(現在の江西婺源)の人で、
彼は宋の理宗景定五年(1264)に郷試に合格したものの、禮部の考試を通らなかったために、
郷里において講学するに終わった。
幼い頃から朱子学の教育を受けているが、それはその家学と関係がある。

胡一桂の高曾伯祖父である胡昴は政和年間に辟雍に登第し、官は太常に至った。
朱松と同年に登第し、また同郷ということもあって、二人は仲がよかった。
高祖父の胡溢は南宋の紹興初年、禮部試で第一位となった。
胡昴との関係によって、胡溢の「獲聞河洛之論」は、朱熹と代々親交があったのである。
そして胡一桂の父親である胡方平は董夢程と沈貴瑤に師事した。
董夢程は朱子の門人董銖の甥で、同時に朱子の門人の程正思と黄幹の学生でもある。

このような家柄と向学の念を背景として、胡方平父子は朱熹を特に重視し、
後代の学者もまた彼らを、「文公の源委の正を得」たと見なしたのであった。
たとえば元代の熊禾は胡一桂を「夫子に功有ること朱子に若しくは莫く、
朱子に功有ること双湖に若しくは莫し」と称賛した。
この話は、胡一桂が当時を代表とする朱子学者とみられていたことを物語っている。

 胡一桂は朱子学を究めたことで著名であるが、
このことは朱熹の考えをすべて受け入れ、何の批判もしなかったことを表すものではない。
この点に関して筆者は博士論文において、『易附録纂註』と『周易啓蒙翼伝』の中で、
どのように朱熹の『易本義』が継承・発展されているのかを扱った。
そして胡一桂のもう一つの重要な経学の著作『詩集伝附録纂疏』では、
彼の朱熹『詩集伝』に対する思考をより顕示することができる。

胡一桂の『易』経上における朱熹との見解の相違はあまり大きな論議を起こさなかったが、
胡一桂の朱熹『詩集伝』に対する批判については、当時の学者たちから非難を受けた。

ならびに、清代の多くの蔵書家や学者もまた同様に、胡一桂が『詩集伝附録纂疏』の中で、
朱熹と異なる観点を提出していることを指摘している。


よって、胡一桂の『詩集伝附録纂疏』を研究することは、
胡一桂がいったいどのように朱熹の学説を継承し、
どのように朱熹の学説を批判・検討したかを理解する助けとなるであろう。

そして胡一桂の観点は、南宋朱子学の発達後、
学術が停滞に陥ったという現在の学界の偏見に対する答えとなるだろう。
二、研究回顧
 胡一桂『詩集伝附録纂疏』は朱熹『詩集伝』に対する注釈であるが、
朱熹とは異なる見解も示している。
この問題はつとに前代の学者によって反映されているとはいえ、
現在においては踏み込んだ研究は見られない。
その原因は以下にあげる二つの因素にほかならない。

まず、先学の大多数は元代の『詩経』学に注意を払わず、
ただ元代の学者の著作における「形制」上の尊朱をみるだけで、
彼らの朱子学に対する批判を重視していなかったことである。


次に、胡一桂『詩集伝附録纂疏』は従来印刷数が少なく、
閲読が容易ではなかったことがあげられる。


現在この書は元の泰定四年(1327)刊本が
北京の中国国家図書館と日本の静嘉堂文庫に保存されており、
明抄本が復旦大学に収蔵されている。
そして喜ぶべきことに、『続修四庫全書』にこの書が収録され、
中国国家図書館の版本を影印しており、今ではこの書の研究に大変便利である。

 本書はこれまで入手が困難であり、専門的な研究もなかったが、
中央研究院中国文哲研究所の楊晋龍氏が本書の価値と重要性を指摘している。

彼が著した「『詩伝大全』来源問題探求」の一文の中で、
銭大昕の「明の永楽中に脩せらる『五経大全』、其の体例は皆此れに昉まる」
という論断をあらためて検討している。
楊晋龍氏は静嘉堂文庫の「解題篇」の記述にもとづいて『詩伝大全』と対照し、
両書の形式に差異があることを発見したが、
このことは両書が無関係であることを示すものではない。

『詩伝大全』に収録されている条目は、
劉瑾『詩伝通釈』・羅復『詩経集伝音釈』・曹居貞『詩義発揮』
・朱善『詩経解頤』と『皇(明)朝郡邑志』のほか、
さらに136条の「典拠不明」の条文がある。
楊 晋龍氏はこれらの条目について、
胡一桂『詩集伝附録纂疏』から抄録した可能性が高いと推測した。
さらに、胡 一桂の朱熹『詩集伝』に対する観点は、
明代の『詩伝大全』の編纂に影響を与えただろうと述べている。


しかし、過去の研究条件が障害となり、
楊氏は胡一桂の『詩集伝附録纂疏』の全文をみてはおらず、
それ以上研究を進展させることができなかった。
とはいえこの説は、後学の胡氏の書に対する研究に道筋をつけたとすることができる。
三、 研究方向と方法
 本研究の問題意識は、主に胡一桂『詩集伝附録纂疏』における
朱熹『詩集伝』の継承と発展に集中する。

そしてこのような変化を、漢代から元代に到る『詩経』学の変遷過程中に置いて観察する。
この問題は、彼が聖人の言である「経学」、
また朱子学を権威とする時代に面して、
この両者の間でどのように自己の立場を確立したのかという点におよぶ。

本研究は、具体的には『経』書編纂の「形式」と「内容」両方面に対する分析に重点を置く。

 胡一桂『詩集伝附録纂疏』の「形式」についていえば、
二つの問題について検討することができる。

まず、先学は元代の学者が「形制」上、尊朱であったことをすでに指摘しているが、
これは「一に朱文公の元本を尊ぶ」という視角に従ったものである。
しかし、『詩経』に対する胡一桂の注釈方式は、
「『朱子文集』「語録」の詩に及ぶ者を采り、『集伝』に附す。
之を『附録』と謂う。又諸儒の説の集伝を輔翼する者を采り、
『附録』に次す。之を『纂疏』と謂う。
『集伝』と異なる者有らば、一を間てて之を取り、注して『姑備参考』と云う。
自ら己が意を下すに至らば、則ち『愚案』・『愚謂』を加え以て之を別つ」というものである。
この手法は彼が著した『易本義附録纂疏』でも用いられている。
問題は胡一桂がどうしてこのような手法を採用したのか、これは朱熹の模倣なのか、
それとも経学の伝統を受け継ぎ、
漢儒経学の体例―伝・序・箋・疏―に符合したものなのかということである。


その次に、胡一桂が引用する「諸儒」については、
『詩集伝附録纂疏』の中に「『詩伝』附録姓氏」と「『詩伝』纂疏姓氏」があるが、
これらの人物と『詩伝大全』とを照らし合わせると、
程門の弟子の引用は楊時一人のみであり、
蔡沈・饒魯・王柏や真徳秀など南宋朱子学の著名な学者も含まれていないことがわかる。

筆者は、この二つの「姓氏」には刻書者によって整理された部分があるのではないか
という疑念を抱いており、
胡一桂が引用する所の姓氏と引用回数を整理・統計し直すことで、
胡一桂が朱熹以外に誰の意見を重視し、そして誰の意見を取り上げなかったのかを探ってみたい。


 内容について見れば、清代の蔵書家と学者の中にはすでに胡一桂の『詩経』に対する観点について、
『集伝』を重視するも墨守はしないと指摘する者がいる。

そこで本研究は、胡一桂の『詩経』に対する解説と、
朱熹の『詩集伝』との間にどのような異同があるのかという点に注目する。

この問題は、二つの部分に分けることができる。

一つは胡一桂の漢代経学の吸収について、もう一つは宋代経学の討論についてである。

前者についていえば、彼は表面上は朱熹の『毛詩』の序に反対する立場を継承していたが、
清代の瞿鏞・陸心源は、胡一桂が『詩』を解する際、
『詩序』の見解を引用し、さらに孔穎達の説を支持していることを特に取り上げているので、
胡一桂の『毛詩』に対する態度を再検討する必要がある。
このほか、胡一桂は朱熹が「韓・斉・魯」三家の説を受容しているのにならい、
特に王応麟の『詩考』を重視しているが、
韓・斉・魯三家は胡一桂の『詩』への解釈にどのような影響を与えているのだろうか。

宋代経学のこのような面については、
王安石や呂祖謙、厳粲の意見はみな胡一桂の『纂疏』に収められており、
彼がこれらの学者のどのような観点を受け入れたのかが、本研究と密接に関わる問題である。

このほか、胡一桂は常に「愚案」・「愚謂」という形式でもって自己の見解を披瀝しているが、
これらの見解は朱熹のものとどのような違いがあったのだろうか。
このような問題意識によって、胡一桂がいかに朱熹の観点を継承し、
そしていかに漢代から宋代までの学者による研究成果を整理・判断を明らかにして、
彼独自の『詩経』解説の特徴を指摘する。
四、完成が期待される項目と成果
元代の『詩経』に関する著作は少なくないとはいえ、現存しているものは多くなく、
現在『続修四庫全書』に収録されて刊行されている胡一桂の『詩集伝附録纂疏』は、
かなり良好な状況にあるといえる。

したがって、この書を研究することで、
胡一桂がどのように朱子学を継承・発展させたかをうかがうことができる。
さらに、彼の『詩経』に対する主要な観点をも知ることが可能であり、
これによって、南宋朱熹の『詩集伝』影響下における元代『詩経』学の発展を理解できるのである。

また本研究では、朱子学を検討するにあたっての
経学領域発展における研究モデルを構築すること
も目的の一つであり、
後日、元代や明代、あるいは日本や韓国の類似作品との対照研究を行いたい。
たとえば、『詩集伝附録纂疏』と元代後期の劉瑾『詩伝通釈』や
朱公遷『詩経疏義口通』とはどのような関係があるのかなど、
検討できることは多い。

同時に、もし楊晋龍氏の指摘する『詩伝大全』の来源について答えるならば、
胡一桂『詩集伝附録纂疏』とは関係があるのだろうか。
あらためて、本書に対する十分な理解のうえに立って明らかにしなければならない。

そのほか、この種の「註釈方式」を持つ朱熹『詩集伝』の観点に対する著述は、
日本・韓国における朱子学を論じる同類の著作とどのような関連があるのだろうか。

このような研究方法によって、日本朱子学や韓国朱子学を観察する視角を提供できるのではないか。
いずれも研究を進めるに値する論点である。
五、日本滞在研究における目的
元代経学の問題を研究するにあたっては、まず材料の掌握をしなければならない。
日本には中国元代の重要な経学の著作が多く収蔵されており、
これらの資料の中には、
中国にはすでに存在していない著作も含まれているかもしれず、注目に値する。


たとえば『静嘉堂文庫宋元版図録』に記載されている胡一桂『詩集伝附録纂疏』序目は、
その編目の順序が中国国家図書館の所蔵本と異なっており、
両種の版本には内容のうえにおいても差異があるのかどうか、考察を進める必要がある。

次に、日本の学者の朱熹『詩集伝』に対する観点も、
中国の『詩経』学を研究するうえで参考となる。
『詩経』はつとに継体天皇七年(513、中国・梁武帝天監十二年)、
百済が五経博士を送り、その講義によって日本に伝来した。
鎌倉時代(1185-1333)と室町時代(1338-1573)においては、
五山の禅僧が中国から多くの漢籍を携えて日本に到った。

『普門院経論章疏語録儒書目録』によれば、これらの漢籍のうち『詩経』に関する著作としては、
『毛詩句解』や『毛詩注疏』、『呂氏詩紀』がある。
そして朱熹『詩集伝』は後小松天皇の応永十年(1403、中国・明成祖永楽元年)に、
日本へ伝来し、日本の禅僧歧陽方秀(1361-1424)が率先して講義した。
とはいえ日本における朱子学の隆盛は、江戸時代(1603-1867)においてであり、
朱子学派中の『詩経』学は大変な盛り上がりをみせた。
関係する学者の著作目録については、附録を参照されたい。

上掲の学者たちは、必ずしも胡一桂『詩集伝附録纂疏』に接してはいないが、
彼らは胡一桂と同様に、朱子学上の立場において、朱熹の思想を継承・発展している。
しかし、彼はどのように朱熹『詩集伝』を伝承したのであろうか。
彼らの著作における「形式」と「内容」において、
朱子学に対する支持あるいは超越をどのように表現しているのだろうか。
彼ら独自の『詩経』に対する理解はあるのか。
また、『毛詩』の説を受容し、あるいは朱熹とは異なる立場にある宋代の学者の意見を
支持していることがあるのだろうか。
彼らはいかに古学派や古文辞学派など、同時代の反朱熹学派に対抗し、
『詩経』に対する解説を行ったのか。

これらの課題について筆者は、
現在のところ、わずかに関連書目を把握しているにすぎないのであるが、
日本各地で資料を調査することで、
江戸時代の朱子学者がいかに朱子学を継承・発展させたのか、
朱子学内部の各学派間にはどのような違いがあるのか、
その特色と朱子学を継承した元代の学者とは何が異なるのか、
ということについて理解を深めたい。

中・日両国における類似した朱子学内部の議論から、
朱子学伝承時に誘導される各種の戦術モデルと思想内容を探ってみたい。